THEガジラ「KASANE」を観ました。

最初に注意ですが、ネタばれです。
私は、昨年劇団かいとうらんまさんの「累」を勧めてくれた、某K氏へ「KASANE」の話がしたくて感想を日記を書いています。(だったら個人的にメールを出せばいいのですが…多分、不特定多数にも聞いて欲しいんでしょう。)
ちなみに色々感じて考えたんだけど、まだ上手く纏まっていなくて、文章の拙さもあって、表現しきれていなかったり、間違えて書いている事もあると思いますが、ご容赦下さい。


昨年のかいとうらんまさんの「累」を観てから、私はこの怪談話の主人公のとりこなんです。”累”とは、本当はどんな女だったのか。
THAガジラさんの「KASANE」は、その”累”を登場させずに、持ち味の社会派の骨太なテーマを存分に突き詰めた作品になっていました。
ストーリーは、プロデュース公演で、話題の女流演出家が男性俳優だけを集めて、鶴屋南北の「かさね」を公演する予定になっていた。しかし、稽古初日になって演出家が、真実の「かさね」をやりたいと台本を破棄し、伝説の村を訪れ、その土蔵でワークショップをしながら、芝居作りを始める。
女流演出家・桐山は”累”は本当は普通の女で、両親から譲り受けた肥沃な田畑の為に、殺された。--村という共同体によって--という解釈を立てて、芝居に取り組み始める。
が、別な役者は別な解釈を説き始める。”累”の夫、殺人犯の与右衛門も、悲劇の人物ではないか--、と。
閉じられた空間で、それぞれの役を演じる上での、役へのアプローチの仕方や想いから生じる解釈の違い。
プロデューサーという立場の人間と、演出家・脚本家・役者という創造する現場の人間の立場。
日本的な芝居作りに慣れた役者に海外で演劇を勉強してきた演出家との芝居作りの認識の違い。
そして、男と女という違い。
”累”という話の何が本当にあったことで、真実で、事実で、何が作られた物語なのか。
突き詰めていくごとに混乱し、日本の社会の異物を排除しようという無意識の巨大な壁が目の当たりにされ、その壁にあがいている、紅一点桐山の姿が、”累”の姿と重なってくる構造となっている。


怪談話の女のお化けとは、怖いけれども、いつも悪い男への「うらめしい」という想いを抱かされた悲劇の女性でもある。
今回、桐山はその女性側から立った視点で、芝居作りを始めるが、男性の役者からは「君は男が嫌いだろう」と言われ、また別な役者からは、「男、女に関係なく、弱者の視点の芝居作りをするのなら、与右衛門も悲劇の人物であったとしてもいい」と解釈される。
余談だけど、この意見には「嗤う伊右衛門」が頭をよぎった。(映画も原作も観てないんですが)
怪談話の一方的な悪になっている男も悲劇の一人であったという解釈もあってもいいですよね。
かいとうらんまさんの「累」はまさに、”累”も”与右衛門”も愛し合っていたのにすれ違って、殺してしまう、苦悩に満ちた哀しい物語でした。
でも、今回の「KASANE」は、”累”という女は存在しなかった---という結論も出てくるのです。”累”とは、川のほとりに住み、人間とは認めてもらえず、殺しても罪にもならない、そんな一族の事であったと。
おそらく、これが真実ではないかと、私は思いました。
桐山は女性だから(妊娠している設定もあり)、”累”が女性で、殺された被害者という認識にこだわり続けていましたが…。


”累”とは本当はどんな女性だったのか---。
彼女が存在していたと認識していた私に”累”とは存在しなかった、という解釈を教えてくれた事は有意義でした。
伝説の”累”の真実を芝居にしようと、色々解釈している姿が、芝居作りとリンクしているのも面白かった。
そして、何かに心が打ち震えて感動するということもなかったんですが、終演後、荒野が見えたんです。
木も草も生えない荒れ果てた大地---。
でも嫌な気がしないんです。
私は、荒野に夢や希望や、優しさの種を蒔くようなお芝居が好きなんだけど。
THEガジラの鐘下さんの余計な感傷や慰めなど一切受け付けない現実の提示の仕方は嫌いじゃないんだなあ、と思いました。
荒野が見えても、現実に対して失望はしない、悲観もしない、
そういう物(異端を排除しようとする意識、遺伝子)が自分の中にもあるとただ向き合わせてくれる---そんな感じがします。

まだ、上手く纏まらない。
後で書き直すかも…。